戦時中を知るオルガンよみがえる

更新日:令和4(2022)年6月13日(月曜日)

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※この記事はバックナンバーです。

太平洋戦争中に市内で使われていた足踏み式のオルガンの修復作業が完了し、当時の音色がよみがえりました。昭和61年に郷土資料館に寄贈されて以来、壊れた状態のまま保管されていましたが、戦後75年が経ち、市内の戦時中の様子を知るうえで貴重な資料になることから、このたび修復作業が行われました。

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疎開児童と交流のきっかけになったオルガン

このオルガンは太平洋戦争中の昭和19年頃、東京から船橋に疎開してきた子どもたちの学校「花輪戦時疎開学園」で使われていたものです。現在の東船橋6丁目にあり、市内唯一の戦時疎開学園として、東京都神田区の国民学校からやってきた約30人の疎開先となっていました。

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花輪戦時疎開学園の門札。昭和19年4月~20年5月に使われていたものが、きれいな状態で残っています

そこから400メートルほど離れた場所にある宮本国民学校(現・宮本小学校)の教師だった青木悦子さんは、花輪戦時疎開学園からオルガンを使った音楽指導を頼まれて、週に1度行くことになりました。親元を離れ寂しい思いをしている子どもたちにとって、音楽指導はとても楽しみな時間になり、青木さんが行くと子どもたちが外まで迎えにきたりはしゃぎ声をあげて喜んでいたそうです。

花輪学園画像

花輪戦時疎開学園の先生と児童たち(昭和19年)

そんな素直でかわいらしい様子に心を打たれた青木先生は、同僚の先生と相談し、宮本国民学校の児童と交歓会を計画しました。学園を訪れた児童たちはすぐに打ち解け、オルガン伴奏の合唱や談笑で楽しい時を過ごしていた矢先、空襲警報のサイレンが鳴り渡り中止に。それでも交歓会をきっかけに一部の教師仲間や児童たちも交流が始まり、学園に遊びに行く児童も増えていきました。

学園の閉鎖とともにオルガンは先生のもとへ

昭和19年の終わりごろになると、東京での空襲は激しくなり、船橋でも毎日のように空襲警報が鳴るなど、安全とはいえない場所になってきます。1年ほど滞在していた学園の子どもたちは、より安全な場所を求めて埼玉県に移ることになり、学園は閉鎖されました。

閉鎖とともにオルガンは青木さんに預けられ、それからおよそ40年後の昭和61年に郷土資料館へ寄贈されました。

当時の音色を再び響かせて

寄贈された当時すでに音は鳴らない状態で、30年余りそのまま収蔵庫で保管されていたオルガンは、今年1月から横浜市の工房でおよそ1カ月かけて修理が行われました。

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修理中のオルガン

痛みが激しい本体裏の板を張り直したり、錆びた部品や鍵盤などを磨き直したりするなど、作業は一つ一つ丁寧に進められ、令和3年2月26日に郷土資料館へ。

「一部は作り直した部品を入れていますが、鍵盤や手彫りで細かな模様が入った譜面台など大部分は当時の状態のままです。温かみのある音がいいですよね」と郷土資料館館長の栗原薫子さんは話します。

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オルガンを弾く栗原館長。音が鳴るようになり、当時の音色が復活しました!

譜面台画像

手彫りならではのかわいらしい模様があしらわれた譜面台は当時のまま

鍵盤画像

鍵盤もきれいに磨かれました

戦時中のつらい環境の中でも、子どもたちを笑顔にしてくれたオルガンは、4月1日(木曜日)から郷土資料館で展示します。ぜひ足を運んでご覧ください。

こちらからオルガンの音色とその歴史を紹介した動画が見られます。※Youtubeサイトに移行します