船橋市内の様々な地名

更新日:平成30(2018)年5月30日(水曜日)

ページID:P061893

地名は、土地と人々のかかわりを伝える「もの言わぬ文化財」。地名の由来をたどると、その土地の地形や自然現象、出来事、伝説、ゆかりの人物など様々な郷土史が見えてきます。
ここで紹介する地名の由来を全部知っていたら、かなりの船橋通!

中部地区

高根町(たかねちょう)

この地が周辺地域の中で最も高台に位置していたことから「高嶺」と呼ばれ、それが転じて高根となったとする説があります。船橋大神宮所蔵の古文書の中に「たかね郷」とあるのがこの地名が書かれた最古の文献であると言われています。昭和48年の住居表示の実施に伴い、町域の3分の1強が高根台、緑台、新高根、芝山、金杉に分離しました。

夏見(なつみ)

昔、船橋大神宮がこの地にあったころは、前面が海岸となっており、そこに磯菜がたくさん生えていたそうです。それを里人が摘んで同神社へ供えたので「菜摘みの里」といわれ、それがなまって「夏見」になったという説があります。また、景行天皇がこの地を訪れた際に、菜摘みをしていた里人に地名を尋ねたところ、里人は都の言葉がわからず、今菜を摘んでいるという意味で「なつみ」と答えたことから「夏見」という地名になったという伝説もあります。

画像
中央消防署夏見分署から船橋駅方面を望む(昭和34年)

東部地区

薬円台/薬園台(やくえんだい)

8代将軍吉宗の時代、この地に江戸幕府直轄の薬草園が開かれたことから名付けられました。薬草園では、朝鮮人参、黄連(おうれん)などが栽培されていたものと想定されていますが、詳しいことは殆ど分かっていません。昭和48年に住居表示が実施され「薬園台」から「薬円台」に変わりましたが、駅名や学校名に旧名が残っています。

飯山満町(はさまちょう)

「いいやまみつる」と人名のように間違えられることもあり、難読地名の一つにあげられます。その由来は、この地が山や台地の間に位置していたことにあります。そのような地形を意味する「はさま」に米(飯)が山のようにたくさんとれるようにとの願いを込めて、当て字にしたのではないかという説が有力です。

習志野(ならしの)

明治6年、この辺りの旧陸軍駐屯地で明治天皇の統監のもと、近衛兵の演習が行われました。その後、この演習地を「習志野ノ原」とする勅命が出されました。「習志野」の由来は、軍隊の操練(習し)をする野という意味で付けられたと言われますが、一説では、演習の指揮ぶりが見事だった篠原少将に習え(「篠原に習え」)という意味で付けられたとも言われています。演習場の一部は現在、陸上自衛隊習志野駐屯地となっています。

画像
習志野演習場の様子(大正4年)

西部地区

本中山(もとなかやま)

昭和42年に住居表示が実施されるまでは、「小栗原(おぐりはら)」という町名でした。新町名を設定する際に、市が地域住民と協議したところ、この地区は市内で最も東京に近いので近代的な町名をつけるべきだという声が高まりました。そこで、発展の目覚ましい下総中山駅の駅名にルーツを求め、新町名は「中山」にしようという案が出ました。しかし、中山という町名は隣の市川市に既にあったので、再度協議を重ねたところ、「中山」はもともと船橋にあった地名だったことから「本当の中山」という意味を込め「本中山」という町名に落ち着きました。

藤原(ふじわら)

藤原の由来については、剣豪宮本武蔵と結びつける説があります。奥羽を巡って常陸路を江戸へ向かう武蔵が、この地で父を亡くした少年伊織とめぐり会って、荒野を開拓。そしてこの土地に本姓名である藤原玄信に因んで藤原新田と名付けたというものです。しかし、この説は、行徳(市川市)周辺に伝わる武蔵伝説と吉川英治氏の小説『宮本武蔵』の内容が混同したもので信憑性は低いと考えられます。この地の開拓は、行徳周辺から移住した者達が中心となって行われました。その草分けであった鈴木政右衛門という人が、検地を受けるために鈴木家の旧姓である藤原からとって藤原新田と名付けたという説が妥当であろうと考えられています。

南部地区

海神(かいじん)

海神の由来については次のような伝説があります。日本武尊がこの地に賊徒平定にやって来たときに、海上に光り輝く舟があり、近づいてみると柱に神鏡がかかっていた。それを浜に持ち帰り祀った場所が海神である。ただし、これはあくまでも伝説です。この地の神社には、昔から海の神を祀っていたことから、それが自然と地名になったと考えられます。

日の出(ひので)

日の出は昭和35年に公有水面埋め立て事業によって誕生しました。当時は、この埋め立て地の東側一帯をはじめ習志野、千葉両市の海面が埋め立てていなかったので、この地から海面の上に昇る朝日がよく見えました。このため、威勢がよい上に、工業地域の発展を象徴している、という理由から「日の出」が地名となりました。

画像
工場が建ちはじめた日の出町(昭和27年)。「日の出町」は昭和49年に住居表示により「日の出」となりました

北部地区

二和東・二和西・三咲・南三咲(ふたわひがし・ふたわにし・みさき・みなみみさき)

江戸時代、この辺りは幕府の広大な野馬放牧場でした。明治時代に入ると、失業者対策としてこの馬牧場を開墾する政策が政府によって打ち出されました。開墾地には入植した順に初富以下の地名が付けられました。このため、千葉県北西部には、数字や佳字を組み合わせた地名があります。

  • 初富(はつとみ/鎌ケ谷市)
  • 二和(ふたわ/船橋市)
  • 三咲(みさき/船橋市)
  • 豊四季(とよしき/柏市)
  • 五香(ごこう/松戸市)
  • 六実(むつみ/松戸市)
  • 七栄(ななえ/富里市)
  • 八街(やちまた/八街市)
  • 九美上(くみあげ/香取市)
  • 十倉(とくら/富里市)
  • 十余一(とよいち/白井市)
  • 十余二(とよふた/柏市)
  • 十余三(とよみ/成田市・多古町)

 ※( )内は現在の市町村域

しかし、開墾が始まったものの水利や地質が悪いなど、入植者の生活は過酷で、4年もたたないうちに入植者の4分の1以上が開墾地を去りました。二和・三咲地区では、わずかに残った人と周辺の村から移住した人の頑張りで、今日まで続く畑作地帯が築かれたということです。

二和地区は、昭和56年に住居表示が実施された際に、町域が東と西に分けられました。

鈴身町(すずみちょう)

鈴身町は以前「行々林(おどろばやし)」という地名でした。昔は草木がよく茂った所で、行けども行けども林が続き、「これは驚いた」という話から付いたと言われていますが、うっそうとした林がおどろおどろしいことから付いたという説が有力です。「おどろ」に「行々」の字を当てたのは「ぎょうぎょう」が驚く、あるいはおどろおどろにふさわしいと考えたからです。昭和30年に鎮守の鈴身神社にちなんで「鈴身町」と改められました。

古和釜町(こわがまちょう)

「古和」についてはこの地の先祖が奈良県大和の古和の出身だからついたという口伝があります。「釜」は穴、くぼ地の意味で、この地の小字の三つまたにあるくぼ地の地形がそれに当てはまります。これらを組み合わせて町名が生まれたと言われています。町は伊勢神宮の神領や千葉氏の領地となったこともあると伝えられています。江戸末期は幕府の天領と松平氏の領地で村高118石でした。

地名「船橋」の由来についてはこちらをご覧ください。