【子ども記者通信】平和な世の中をつくるためには(若松中学校 頓所 寛己さん)
船橋市は、昭和61年12月19日に「平和都市宣言」を行いました。原爆の被害を受けた広島市と長崎市へ学生を派遣する「平和派遣事業」は、戦争の悲惨さや平和の尊さを伝えていくことを目的に行われています。令和7年は、終戦から80年の節目の年であったことから、被爆地である広島に加え、住民を巻き込む地上戦が行われた沖縄にも派遣しました。私は沖縄に行き、沖縄戦について詳しく学びました。
まず最初に、旧海軍司令部壕を訪れました。旧海軍司令部壕は、沖縄戦の重要な軍事拠点である海軍小禄飛行場を守るために建設された基地です。その後、糸数アブチラガマを訪れました。アブは深い縦穴、チラは崖、ガマは沖縄の方言で洞窟や窪みのことを言います。このアブチラガマは、実際に住民が避難していました。
2日目に、対馬丸記念館を訪れました。対馬丸記念館は、アメリカ軍の攻撃で多くの疎開児童が亡くなった対馬丸事件の悲劇を伝えるためにできた施設です。そこでは講話を聞きました。
次に、ひめゆりの塔を訪れました。ひめゆりの塔は、悲惨な戦争で亡くなった多くの人の鎮魂と、二度と戦争を起こさないという平和への強い願いを後世に伝えるために建てられました。ひめゆり学徒隊は、15~19歳の女学生で看護要員として動員されましたが、戦争が激しくなる中で解散を命じられ、たくさんの学徒が戦死しました。このことから、悲劇の学徒隊と呼ばれています。
その後、沖縄県平和祈念資料館と平和の礎を訪れました。平和祈念資料館は、平和の心を世界へという思いで建設されました。平和の礎は、平和への思いを込めて作られ、沖縄戦の戦死者の名前が彫られています。沖縄戦では、遺品はほとんど残っておらず、遺族にとって礎に名前が彫られていることが生きた証になるとのことでした。
そして、沖縄平和祈念堂を訪れました。そこにある大仏は、平和への願いが込められてできたそうです。
沖縄戦について、3つのことが強く印象に残りました。
1つ目は「沖縄戦では、多くの人が被害者であると同時に加害者である」ということです。私は、沖縄戦について詳しく学ぶまでは、米軍が加害者で沖縄県民や日本兵が被害者だと思っていました。しかし、実際に沖縄戦を経験した人は、みんな自分も加害者だと思っていることを知りました。沖縄戦では、みんな生き抜くことに精一杯であったため、自分で歩けない人などを壕の中に置いて、逃げた人が数多くいたそうです。仲間を置いて逃げてしまったため、自分がその人を殺してしまったと思っているということが分かりました。沖縄戦を経験した人は、沖縄戦についてあまり語らないという理由が分かりました。仲間を置いて行ってしまったという罪悪感があったため、語りたくなかったのだと思いました。
2つ目は、子どもの犠牲がとても多かったということです。沖縄戦では、数多くの学徒隊や少年兵、疎開児童が犠牲になりました。1番有名な学徒隊は、ひめゆり学徒隊です。およそ2人に1人が犠牲となりました。少年兵は、兵力不足により数多く動員され、多くの犠牲が出ました。疎開児童は、対馬丸事件で犠牲者が増えました。沖縄戦は、負の象徴のように感じました。
3つ目は、「米軍に捕まったら殺される」という洗脳です。当時の日本の教育は、軍国主義を基に教育されていたため、米軍に捕まったら確実に殺されると思っていたそうです。米軍が沖縄本土へ上陸した時に、沖縄県民や日本軍は地下にある自然ガマや壕へ避難しました。糸数アブチラガマでは、米軍兵が「大人しく投降したら命を助けてやる」と勧告しましたが、日本兵は、沖縄県民に投降を辞めさせ、逃げられないよう銃口を向けて監視しました。米軍兵は、投降させるのを諦め火炎放射器で出入り口を塞ぎました。その影響により、壕内で多大な負傷者を出してしまいました。また、米軍兵に捕まることを恐れ、手榴弾で自決を選択した人が数多くいました。自決をしなかった人は、その後米軍に捕まりましたが、殺されずに尋問により一般住民と兵士に分けられました。その後、沖縄は米軍の支配下となり、理不尽な事件が数多くありました。沖縄戦で多大な犠牲者が出たのは、米軍と沖縄にいた人を捨て駒のように扱って洗脳した日本政府が原因なのではないかと思いました。
資料館では「命どぅ宝」という言葉をよく見ました。この言葉は、沖縄の方言で「命こそ宝」という意味です。「もう二度と戦争が起きない平和な世界になってほしい」という願いが込められているそうです。世界に発信されています。
「犠牲者は数字ではなく人で、全員に顔があった」これは、糸数アブチラガマのガイドの人の言葉で、印象に残りました。沖縄の資料館やニュースでは、数字が強調されていますが、私たちが忘れてはいけないことは、犠牲者やその家族などの戦争に巻き込まれた人は「みんな生きていた」ということです。このことを知ることで、戦争の悲惨さをより感じることができると思います。
私は、沖縄派遣後の令和7年10月5日に平和の集いに出席し、派遣報告を行いました。平和の集いは毎年行われており、平和派遣者による派遣報告、「平和」をモチーフとした映画の上映、戦争に関する展示を行っています。私は、派遣者として派遣報告を行いました。学校では人前に立って話すことが多いので、発表することは慣れていると思っていました。しかし、壇上に上がると想像の倍以上緊張してしまいました。発表部分を完璧に言えるよう練習していましたが、緊張で上手く発表することができませんでした。発表が終わった後も緊張が収まらず、客席に座るとようやく緊張がほぐれました。発表で失敗してしまいましたが、大変貴重な良い経験をさせていただいたと思います。
令和7年で終戦から80年を迎えました。私は、この平和派遣事業に参加するまで、歴史上の1つの出来事として考えていました。しかし、実際に足を運んでからは、戦争とは最近まで起きていたことだと分かりました。80年も前のことだと思う人もいるかもしれませんが、戦争が終わったその後も戦争により苦しんだ人は数多くいます。今も世界中で戦争が起こっています。戦争を、他人事として捉えるのではなく自分事として捉えていくことが、戦争のない平和な世の中をつくっていくのに大切だと思います。
(令和8年1月14日投稿)

▲沖縄県営平和記念公園 平和の礎
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