地域の歴史と地名

更新日:令和3(2021)年4月20日(火曜日)

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葛飾の移り変わり

葛飾公民館の緞帳デザイン

葛が繁茂するという意味と云われる葛飾の地名は万葉集、続日本書紀などにもその名がでてきます。
江戸末期まで広い地域の総称であった葛飾の地は、下総国の北西部一帯のことで、葛飾野と呼ばれる台地と、利根川、江戸川、東京湾岸の低地によって構成されています。近年、万葉の時代の印内遺跡、本郷台遺跡が発掘されて、住居跡や掘立柱建物跡が発見されました。
船橋市の旧葛飾町地域は葛飾野の東部にあたり、前面に海岸線、中央部に古作支谷(葛飾川)が入り込み、葛羅の井などの湧水池があちらこちらにあり、流れ出た水を貯える「勝間田の池」に代表されるような池が各地に見られました。
葛飾の台地は畑作地、海岸の低地は水田に利用されて、気候温暖で肥沃な土地に人々は古くから生活を営んでいました。
明治22年、西海神、山野、印内、古作、寺内、二子、小栗原、本郷の8ヵ村がまとまり、千葉県東葛飾郡葛飾村となり、昭和6年には葛飾町となりました。
葛飾の名は、本郷にある郡の総社といわれる「葛飾神明」の社号をとったものといわれています。当時の人々は、かつて1都3県にまたがった「下総国葛飾郡」の郡名発祥の地を誇りとしました。
昭和12年、葛飾町は船橋町、法典村、塚田村、八栄村ほかと合併して船橋市となりました。由緒ある葛飾町の名が消えました。昭和15年新町名表示のとき、寺内がそれまで親しんだ自らの地名をあえて変更して由緒ある葛飾町を地名を復活し葛飾町1、2丁目と改めました。昭33年、総武線西船橋駅が開業しました。地下鉄東西線、そしてJR武蔵野線が相次ぎ乗り入れして、葛飾の一帯は大きく変貌していきます。
昭和15年につけられた葛飾町の名は長く親しまれてきましたが、昭和42年の新住居表示によって、葛飾町のほとんどが「西船」と表示されて、今では葛飾2丁目の一部を残すだけとなっています。葛飾の名は葛飾小学校、葛飾中学校、葛飾神社などを残すだけとなりました。
京成電鉄の「葛飾駅」も地元の請願空しく昭和62年4月「京成西船」とその名を変えてしまいました。
万葉のゆかしい響きを漂わせる葛飾の名も、開発の波に洗われて西船中心に変わってしまいましたが、幸いにも、平成2年6月に西船地区に公民館が新設されて「葛飾公民館」と命名されました。
葛飾の地名を懐かしむ人々にとって、まことに喜ばしいことです。

文:佐久間 象三氏(船橋市郷土資料館だより:1990)

船橋市葛飾公民館(電話受付・お問い合わせ/電話047-437-5072

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