船橋市立 宮本小学校

  • 〒273-0003千葉県船橋市宮本7-10-1
  • 047-422-6187

学区

最終更新日:平成23(2011)年5月9日(月)

ページID:P014330

学区周辺の移り変わり

<地名の語源>

 船橋の北の大地から流れる水が現在の東京湾に注ぐ川が海老川である。いつの頃からか、宮本の大地から西の海神の方面に行く道が通じた。川には、船を並べ、その上に板等を渡して歩けるようにした橋がもうけられた。このことから船橋の地名となったというのが通説である。
 船橋は、江戸時代には、五日市村、九日市村、海神村に分かれていたが、3村を総称して船橋村とか、船橋宿と言われており、この地域が、明治22年に船橋町となったのである。宮本小学校のあたりは、五日市村に入っていた。
 五日市村は、九日市村と並んで船橋村の中核をなしていた。古くは大神宮周辺で五の日に市場が開かれたことからこの地名がついたとされている。船橋は江戸時代以前から交通の要所であり、また、地方としては大きな船橋大神宮があったことから、室町時代頃から市が立つようになったと言われている。この市は江戸時代の初め頃まで続いたようである。明治22年に船橋町になると五日市は大字となり、やがて、昭和12年に船橋市が誕生、15年に新町名設定で五日市は宮本町1~6丁目となった。宮本の名は古くから慣用句として使われていて語源はもちろん船橋大神宮のある場所という意味である。その後、昭和40年代の新住居表示が実施されて、現在の宮本、東船橋、となった。
 下の絵は、天保7年(1836)に刊行された「江戸名所図絵」の中の挿絵である。この「もろ神社」の絵は通称砂山浅間(すなやませんげん)から海(東京湾)を臨んだ光景である。中央の道は上総道(後の千葉街道)で、右手は水田であった。左手は畑、草地であり、実際は絵より、台地が道路に近く迫っていた。(綿貫氏)


江戸名所図絵

 

この地図は明治13年に測量され発行された地図を元にして作図したものです。このころの宮本小学校は了源寺にありました。

明治13年地図

現在の学区は次の通りです

  • 宮本2~5丁目
  • 宮本6~9丁目
  • 東船橋5~7丁目
  • 浜町1丁目(ファミリータウンは除く) 


    現在地図