坪井の歴史と文化財及び公民館の沿革

更新日:令和5(2023)年2月22日(水曜日)

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坪井の由来 

「坪井」は船橋市の北東部に位置し、東を八千代市吉橋・大和田新田と接し、他の三方は古和釜町、松が丘、習志野台と接しています。印旛沼水系の桑納川(かんのうがわ)の支流で、坪井の西を駒込川、中央を坪井川が共に南から北に向かって流れます。

「坪井」の語源としては、(1)「坪」は小さい・狭いを意味し、狭い谷間に出来た集落の意とする、この説が一般的なようです。これは「ゐ」を「居」とし、集落のことと解釈したものです。他には、(2)「井」が井戸・泉・湿地等を意味することから、壺穴状の井戸(泉)があったから付いた地名、(3)古代条里集落の地目の単位「坪」の中の小集落が語源となったなどの説もありますが、正確なところはわかっていません。 

 坪井の歴史

【旧石器時代】

坪井で最も古い人の生活していた痕跡はおよそ紀元前32,000年のもの、源七山遺跡(げんしちやまいせき)で発見されました。その発掘調査では、遺物がまとまって出土した場所=ブロックが29も見つかり、縄文時代が始まる紀元前13,000年までの間、断続的に生活していたことがわかりました。この遺跡で使われている黒曜石は、時期によって信州産が多かったり栃木県の高原山産が多かったりします。時期によって石器づくりに使われる石が異なっている点が、源七山遺跡の大きな特徴です。

【縄文時代】

縄文時代に入ると、源七山遺跡ではおよそ紀元前3,000年の縄文時代中期前半(阿玉台式(あたまだいしき)期)の竪穴住居跡の可能性がある竪穴状遺構と、8か所の礫群(れきぐん)や土坑(どこう)が発見されました。また早期や前期、後期の土器も出土しています。

また源七山遺跡北方約250mにある中井台(なかいだい)遺跡の発掘調査では、時期は不明ですが、土坑や陥穴(おとしあな)がわずかながらも見つかっています。

他には坪井で上竹(うえたけ)遺跡(源七山遺跡より北西約350m)と城見山(じょうみやま)遺跡(源七山遺跡より北東約400m)が縄文時代中期、坪井向(つぼいむかい) 遺跡(源七山遺跡より北東約650m)が縄文時代中・後期の遺跡として知られております。そのうち上竹遺跡は平成23年に調査が行われ、その際には縄文土器は出土したものの遺跡は検出されず、他の遺跡は発掘調査が行われていないので、詳細については不明です。

【弥生・古墳時代】

この時期に該当する遺構や遺物は、源七山遺跡での発掘調査でわずかな発見があったのみです。

【奈良・平安時代】

源七山遺跡では、この時期の円形周溝状遺構(えんけいしゅうこうじょういこう)が検出され、円形周溝内中央部に埋葬施設と想定できる土坑が見つかっています。さらに平安時代の竪穴住居跡が1軒、検出されました。

また中井台遺跡でも、平安時代の竪穴住居跡1軒と土坑が見つかっています。

【中世】

源七山遺跡では遺構・遺物は遺跡の中央部に集中し、墓域を形成する遺構が主なものでした。他に掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)のほか、多数の遺構が発見されました。遺物は12世紀後半の火葬骨蔵器(かそうこつぞうき)の常滑甕(とこなめがめ)から16世紀代の瀬戸・美濃大窯段階の擂鉢(すりばち)まで、中世全体にわたって出土しています。

中井台遺跡でも道路状遺構、溝状遺構、堀、土坑等の遺構が発見されました。またこの辺りには、坪井城跡があったと思われます。伝えによれば高さ2m以上の土塁、深さ2m以上の堀が廻った方形の城であったといわれていますが、現在では平坦な畑地となってしまいました。しかし明治36年の測量地図からは、土塁が廻っていたと思われる様子を見ることができます。

また坪井ではこの時期のものとして、暦応4(1341)年銘入りの板碑(いたび)があります。板碑とは主に鎌倉時代から江戸時代にかけて作られた、石製の供養塔(くようとう)です。他に坪井の墓地からは、文和年間(南北朝時代;1352~1355年)四月銘入りの板碑と、中折れした南北朝時代前期と思われる板碑2基が見つかっています。

このような状況から、中世のいつ頃かはわかりませんが、伊勢神宮の荘園「萱田神保御厨(かやだじんぼみくりや)」の一部、神保郷に属し、人々が住んで集落をつくっていたと思われます。

【近世】

坪井は寛文年間(1661~1672)に伊予国今治城主松平美作守(みまさかのかみ)定房の領地となり、その子定時に相続されました。定時の死後三男修理亮(しゅりのすけ)定昌に分与され、以後旗本松平侶之丞家5,000石の知行地(ちぎょうち)の一部として幕末まで続きました。

源七山遺跡では、小金牧(こがねまき)の南部に位置する下野牧(しものまき)の、坪井・習志野台境野馬土手(つぼい・ならしのだいさかいのまどて)があります。小金牧とは、江戸幕府が軍事力を誇示し、全国支配を継続する一環として軍馬を安定的に確保するため、下総国に設けられた牧です。ここの野馬土手は牧と村との境に設けられた土手で、構造は中心に溝(堀)を掘り、両側に土手を築くタイプの二重土手でした。この野馬土手はほとんど区画整理事業に伴って壊されてしまいましたが、船橋日大前駅の南、日本大学理工学部に隣接する道路脇に、土手が一部残されました。

中井台遺跡では、溝や土坑・小穴が見つかりました。

この時期の坪井には、西光寺(さいこうじ)の境内に江戸時代初期の正保(1645~1648)、寛文(1655~1672)の年号を持つ墓石が存在します。また17世紀前半から庚申塔(こうしんとう)が造立され、この頃には庚申講が営まれていたことがわかります。

文献では寛文9(1669)年の検地で下総国葛飾郡坪井村と記されていますが、元禄のころ(1668~1703)に下総国千葉郡坪井村となったようです。坪井公民館の西隣りにある庚申塚の享保14(1729)年銘の庚申塔にも、下総国千葉郡坪井邑と刻まれています。

当時の村の石高は173石5斗5升で、幕末まで変わりませんでした。

【近・現代】

明治12(1879)年 大火で安養寺(あんようじ)を始め、多くの民家が焼失しました。

明治22(1889)年 千葉県千葉郡豊富村が組織されて、豊富村坪井となりました。

昭和29(1954)年 豊富村は船橋市に合併して船橋市坪井となり、翌30(1955)年の町名設定で船橋市坪井町となりました。

昭和40(1965)年頃 習志野台に接する南西部が住宅地として造成されました。 

平成 8(1996)年 東葉高速鉄道が西船橋駅~東葉勝田台駅間に開通しました。

平成 9(1997)年 独立行政法人 都市再生機構による坪井地区区画整理事業が始まり、工事に先行して源七山遺跡の発掘調査が始まりました。

平成16(2004)年 10月に坪井地区土地区画整理事業の一部が完成し、まちびらきが行われました。

平成22(2010)年 2月1日から、町名が「坪井町」、「坪井東」、「坪井西」となりました。

坪井の文化財

 ○ 千葉県指定無形民俗文化財「下総三山(しもうさみやま)の七年祭り(しちねんまつり)」(平成16(2004)年3月30日指定)

坪井は古和釜町にある八王子神社の氏子として、下総三山の七年祭りに参加しています。

下総三山の七年祭りは、船橋市・千葉市・八千代市・習志野市の4市から9つの神社が集まる、下総地方を代表する寄合祭りです。行事は9月の小祭と、11月の大祭からなり、6年ごとの丑年と未年に行われ、数えで7年ごとになるので、七年祭りと呼ばれています。

前回は平成27(2015)年に行われ、次回は平成33(2021)年に行われます。

○ 庚申塚(こうしんづか)(坪井町路傍)

坪井公民館西隣には、現在7基の庚申塔が祀(まつ)られた庚申塚があります。中国から伝わった庚申信仰が、日本では村に疫病や悪者が入らないように、また皆が健康でいられるようにという独自の信仰に変わり、庚申講の人たちがそうした願いを込めて、庚申塔を建てました。最も古い宝永元(1704)年に造立されたもの(左から3番目)は、日本大学理工学部の敷地内にあったものです。

○ 太山堂(たいざんどう)

坪井公民館の西隣、庚申塚の北側には大日如来が祀られた太山堂があります。太山堂の手前には文化12(1815)年の手水石が、また入り口には天保3(1832)年に造立された二十六夜供養塔もあります。

○ 道祖神(どうそじん)

坪井公民館の北側には、「道禄神(どうろくじん)」と書かれた道祖神が建っています。道祖神は村の入り口や道が分かれているところに建てられ、悪霊や疫病が入ってくるのを防ぐ神様として祀られました。ここの道祖神は坪井の区画整理事業の際、移転される計画でしたが、地元の人たちの要望等により、現在も同じ場所に建っています。

○ 馬頭観音(ばとうかんのん)(坪井町路傍)

坪井公民館の北方約140mの路傍には、大正3(1914)年に造立された「馬頭観世音」と刻まれた馬頭観音供養塔があります。馬頭観音は古くから仏教の中で信仰されており、その頭に頂く馬からの連想からか、馬の守護神としての性格が加わりました。さらに愛馬への供養塔として、市内に多く建てられました。

またこの馬頭観音の右には「天満宮(文化3(1806)年)」と刻まれた天神、左には「妙法観音大士(安永2(1773)年)」と刻まれた聖観音(しょうかんのん)供養塔があります。

○ 道標(どうひょう)(坪井町路傍)

坪井公民館北約310mには、「右 御滝山道(おたきさんどう)」と刻まれた、慶応3(1867)年の道標があります。

道標とは方向や目的地を示した、みちしるべです。また御滝山とは、金杉6丁目にある金蔵寺(こんぞうじ)(「御滝不動尊」)の山号です。

○ 庚申塔(こうしんとう)ほか(船橋市・八千代市境)

ここには寛延2(1749)年の庚申塔、嘉永4(1851)年・大正12(1923)年の石灯籠、明治18(1885)年の道標、また大正4(1915)年の手水石(ちょうずいし)があります。この庚申塔は邪鬼を踏みつける青面金剛(しょうめんこんごう)や三猿、二鶏が彫られており、また正面には「むかうにゆけはさくらミち」右側面に「このほう行ハ小かね町」左側面に「このほうへ行ハふなはし」と刻まれており、道標も兼ねていました。

○ 坪井・習志野台境野馬土手(つぼい・ならしのだいさかいのまどて)(坪井東1路傍)

坪井の歴史の中で紹介しました小金下野牧の野馬土手の一部が、船橋日大前駅の南、日本大学生産工学部に隣接する道路脇に残されています。

○ 獅子舞(ししまい)

かつては9月1日に獅子舞が行われ、子安神社と安養寺・西光寺のいずれかで獅子を奉納していました。今は9月1日前後の日曜日に、獅子頭を西光寺、安養寺、太山堂、子安神社、白山権現に供えに行きます。

○ 初(はつ)ばやし

1月、今は成人の日の前日の正午前から夜にかけて行われます。行事は世話人の青年と子供たちが主体となり、神輿を担いで各家を回り、悪霊を祓います。

坪井の近世寺社

 ○ 子安神社(こやすじんじゃ)

坪井の鎮守です。創立年代その他についてはわかりません。社殿は1間社流造(ながれづくり)、昭和26(1951)年2月13日に改築されたものです。それ以前の形式は不明で、昔ここには郷倉(飢饉などに備えて、米を貯蔵しておく倉庫)があったとも言われています。平成21(2009)年に、境内が整備されました。子安神社の境内には、天保10(1839)年の子安塔などの石造文化財があります。

○ 安養寺(あんようじ)

日蓮宗に属し、位光山と号します。昔は中山法華経寺の末寺でした。本尊は釈迦如来で、文安2(1445)年に死去した日賢という僧が開基と伝えられます。別に延徳年中(1489~91)に開基したとも伝えられています。かなりの古寺と考えられますが、明治12(1879)年の大火で古記録のほとんどを焼失しており、正確なところは不明です。かつての本堂は明治12年の大火で焼失したあと、明治30(1897)年に近くにあった民家を移築して使用していましたが、平成9(1997)年に現在の地に移転しました。寺の入り口には、享保16(1731)年の題目塔や安永10(1781)年の日蓮上人供養塔などの石造文化財が並んでいます。

○ 西光寺(さいこうじ)

真言宗豊山派に属し、熊野山と号します。昔は八千代市吉橋・貞福寺の末寺でありましたが、現在は無住で、船橋市金杉・金蔵寺の兼務寺となっています。本尊は薬師如来です。この薬師如来は寛喜2(1230)年の作とされ、古来秘仏でした。寺背後の墓地からは中世の板碑が多数出土しており、また境内には正保(1645~1648)、寛文(1655~1672)の年号を持つ江戸初期の墓石が散在します。そのため近世以前からあった寺と、思われます。本堂は昭和39(1964)年頃の再建で、本堂の隣には阿弥陀堂があります。

<参考文献>

  • 船橋市『船橋市史 前篇』(昭和34年3月)
  • 船橋市郷土資料館『板碑』(昭和54年3月)
  • 船橋市教育委員会『坪井町の民家』(昭和57年3月)
  • 船橋市郷土資料館『道標』(昭和58年3月)
  • 船橋市『船橋市の石造文化財(船橋市史資料(一))』(昭和59年3月)
  • 船橋市『船橋市の遺跡(船橋市史資料(二))』(昭和62年3月)
  • 「郷土の歴史 34 坪井」『船橋市郷土資料館だより 第45号』(昭和63年12月)
  • 船橋市教育委員会「坪井の天道念仏」『船橋の天道念仏 ―第3次船橋市民俗芸能調査報告―』(平成2年3月)
  • 綿貫啓一『郷土史の風景 付・船橋,鎌ケ谷の地名』船橋よみうり新聞社(平成2年7月)
  • 船橋市郷土資料館『庚申塔1』(平成6年3月)
  • 船橋市立坪井小学校創立二十周年記念事業実行委員会『船橋市立坪井小学校 創立二十周年記念誌』(平成6年6月)
  • 千葉県教育委員会『千葉県埋蔵文化財分布地図(1)―東葛飾・印旛地区(改訂版)―』(平成9年3月)
  • 船橋市『船橋市史 民俗・文化財編』(平成13年3月)
  • 香取正彦、榊原弘二、新田浩三『船橋市源七山遺跡』財団法人 千葉県教育振興財団(平成18年9月)
  • 船橋市教育委員会「下総三山の七年祭り」『船橋市の文化財』(平成21年3月)
    小中美幸「中井台遺跡(2)」『平成21年度 船橋市内遺跡発掘調査報告書』船橋市教育委員会(平成22年3月)
  • 田村隆、山岡磨由子、川端結花、青山幸重「房総半島の後期旧石器時代石器群(上)」
  • 『千葉県立中央博物館研究報告 ―人文科学― 第11巻第2号』千葉県立中央博物館(平成22年7月)

公民館の沿革

坪井公民館管区は市の北東部に位置し、八千代市に隣接しています。令和4年4月1日現在、面積約1.9平方キロメートル、世帯数4,807世帯、人口12,949人です。この地区は昭和40年の宅地造成、平成8年の東葉高速鉄道開通、翌年からの土地区画整理事業により人口が急増しました。平成19年には市内24番目の地区コミュニティとなりました。公民館周辺には、幼稚園、小中学校、大学があり教育環境が整備され、少子高齢社会の中で、高齢者層よりも新たな住民を中心に子育て世代が多いため、15歳未満人口比率が高い地域です。地域住民のまちづくりに対する意識や関心は高く、町会・自治会をはじめとした各種団体の活動が活発な地域でもあります。

公民館施設概要

施設名称

船橋市坪井公民館

所在地

船橋市坪井町1371番地

建物構造

鉄筋コンクリート地下1階、地上2階建

敷地面積

2,233平方メートル

延床面積

1,899平方メートル

竣工年月

平成22年12月

開設年月

開設23年2月

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坪井公民館

〒274-0062千葉県船橋市坪井町1371

受付時間:午前9時から午後5時(開館は午後9時30分まで) 休業日:原則毎月最終月曜日・祝休日・12月29日から1月3日