【子ども記者通信】新京成電鉄の歴史と楽しみ方(芝山東小学校 堀口 栄渡さん)

更新日:令和5(2023)年6月20日(火曜日)

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芝山東小学校 堀口 栄渡

 くぬぎ山駅にある新京成電鉄の本社へ取材に行ってきました。
 新京成線は、日本陸軍の鉄道連隊が訓練用として使用していた鉄道の一部を再利用して作られました。鉄道連隊では、陸上輸送の中心が鉄道だった時代に、戦地の鉄道を修理したり、ゼロから鉄道を敷いたりするため、さまざまな鉄道に関する訓練が行われていました。訓練用の鉄道は、戦前の1932(昭和7)~1933(昭和8)年ごろには、千葉~松戸間が開通していたと伝えられています。
 終戦後、京成電鉄は不要となった訓練用の鉄道の入手に動き出します。松戸~津田沼は東京に近いので、普通の電車が走れるようにすれば、沿線が開発されて住宅地になり、たくさんの人に乗ってもらえるようになるという事業のねらいがあったと思われます。そして1946(昭和21)年に新しい会社を作り、この鉄道の建設と経営を任せました。それが新京成電鉄です。
 しかし、鉄道連隊は列車を蒸気機関車で走らせていたので、普通の電車を走らせるためには電気の設備なども新しく作らなければならず、新京成電鉄は、ほとんどゼロから鉄道を作り直したそうです。戦後の物不足の中、資材集めは大変で、線路は少しずつしか延ばせませんでした。線路は津田沼の方から松戸に向け作られていき、最初に開業したのが新津田沼~薬園台間の2.5kmで、1947(昭和22)年12月のことでした。
 松戸付近では丘をくずしたり、資材がなく橋をかけられずに路線を変えたりし、少しずつ線路を延ばしました。全線が開通したのは1955(昭和30)年4月で、開業から約8年かかったそうです。
 その後、線路ができてもすぐに沿線が開発されたわけではなく、駅員さんは、社内で「ワンマンボックス」と呼ばれていた粗末な作りの駅に勤務していました。夏はカンカン照り、冬は震え上がるような寒さに耐えながら、いつかは沿線が開発されると信じ、京成電鉄から譲ってもらった中古の電車を使い、一生懸命鉄道を走らせ続けました。駅員さんが近所に水をもらいにいったりもしたそうです。1960年代には、苦労の末に大きな住宅団地の誘致に成功しました。日本経済も高度経済成長になり、一気に利用者が増え、駅も電車もとても立派になりました。
 現在、利用者が1番多いのは松戸駅ですが、新津田沼と京成津田沼、北習志野と習志野駅など、となり合う駅で利用者が分散している駅も見られます。乗り換え路線がない駅で1番利用者が多いのは、五香駅です。船橋市だけで9駅も停車駅があり、市内の移動にもとても便利です。
 以前は北総線の直通運転もありましたが、北総線が都心までの路線を作ったことで乗り入れる必要がなくなり、1992(平成4)年に廃止されました。また、新京成の車両や駅で見られる特徴的なピンク色は、会社のイメージを一新するため選ばれたそうです。
 困難な時期を経験したため、新京成電鉄で働く人たちは、毎日利用してくれる方と沿線に移り住んだ地域の方への感謝の気持ちを持って、日々の業務に取り組んでいるとのことでした。車両基地見学など、新京成により親しんでもらうためのさまざまなイベントは、他の鉄道会社に先がけて実施しました。駅の間かくが短いのも、たくさんの方に乗ってもらいたいという思いの表れです。
 コロナ禍で働く場所が変わったり、環境のことや車の運転ができなくなるお年寄りが増えたりする未来に、新京成電鉄はとても必要な路線だと思います。
 貴重な写真や資料を見ながらくわしく説明をしてもらい、緊張しましたがとても楽しかったです。ぜひみなさんも新京成に乗って、カーブや風景を楽しんでみてください。

(令和5年5月29日投稿)

新京成電鉄本社 インタビュー
        (新京成電鉄本社でインタビュー)

特徴的なピンク色の車両
        (車両や駅はピンク色がメインです)

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