二和の歴史

更新日:令和5(2023)年7月24日(月曜日)

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石器の写真 船橋市内では約二万年前の後期旧石器時代の石器が出土していますが、そのうちの一つに二和西1丁目の「西の台遺跡」があり、この遺跡では石器が大量に出土し、火を使ったことも確かめられています。 縄文時代にはこの台地近くまでリアス式の海が入り込んでいて、網を使った漁なども行なわれていました。遺跡は現在二和グリーンハイツとなっています。
 船橋市域がほぼ現在の地形となったのは、弥生時代から古墳時代(紀元前3世紀~7世紀頃)にかけてのことでしたが、市内の他の遺跡の様子から、二和にもいくつかのムラ(集落)があり人々が集団で生活していたと考えられます。
 古墳時代になると、西の台(遺跡)では弥生時代から引き続き、竪穴式住居で土師器と呼ばれる素焼の土器を使いながら人々が住んでいましたが、その後、飛鳥時代から奈良・鎌倉・室町と二和の様子は特に記録にないようです。
 江戸時代、下総の台地には広大な幕府の馬牧が置かれていました。牧場の数は時期によって変りますが、江戸時代後期には小金五牧、佐倉七牧で計十二の牧場がありました。牧場は一つ一つが広大で、大人が一日かがりでも廻りきれないものもあったそうです。 二和地域がある船橋の中央台地は小金五牧のうちの「下野牧」で習志野市北部を経て千葉市西端まで至る細長い牧場でした。
 明治維新によって東京府下を中心に多くの失業者が生じ、政府と東京府により人々を下総台地の旧幕府牧へ移住させて開墾農村を作る計画が立てられました。 明治2年3月に政府に開墾局が設置され、運営は民間に任せる方法をとって5月に開墾会社が設立しました。 8.9月に「窮民授産開墾規則」など具体的な規則が定められて、10月には募集が始まり、第一陣は10月26日に現鎌ヶ谷市に入植し「初富」、11月11日にこの地に入植し「二和」となりました。 なお「二和」は開墾順序と佳字を組み合わせたもので、三咲(船橋)豊四季(柏)五香(松戸)六実(松戸)七榮(富里)八街(八街)九美上(香取)十倉(富里)十余一(白井)十余二(柏)十余三(成田)と続いています。開墾記念碑の写真
 二和へは3陣に分かれて入植が行なわれ、159世帯548人が移住しましたが、原野は地味が悪く干ばつに悩まされ、防風林もなく大風で表土と共に作物までも飛ばされることもあり、農作業未経験者の多い入植者には悪条件が重なって2年余りで4分の1が開墾地を去りました。
そのような状況に政府・会社・東京府・印旛県・移住者の間で協議、かけひき、抗議等目まぐるしい展開があったものの、移住者に5反5畝の土地割り渡しで移住者を独立させるという名目で、入植から2年半で開墾会社は解散してしまいました。 会社解散後に退転者は一層増加し、開墾会社役員で二和担当だった星野清左衛門は開墾予定地の過半を取得して小作地として貸し出し、近隣農村の次・三男が借り受けて農地を広げました。 二和・三咲とも当初の入植者のうちでわずかに残った人々と、後に周辺農村から移住した人々が今日に続く畑作地帯を築き上げたのです。
 このころ、近くの習志野ノ原に陸軍練兵場が置かれ、明治31年からは現習志野駐屯地の場所に部隊が常駐するようになりました。その後、明治から大正、昭和にかけて重要な軍用施設が習志野原周辺に次々と誕生し、津田沼の鉄道連隊は点在する施設を軍用鉄道や軽便鉄道で結ぶとともに、演習線路の施設や撤去を繰り返していました。昭和4.5年頃には津田沼~松戸間が線路で結ばれたようですが、演習線を含むため常設されていたかどうかは定かではありません。 二和の開墾地そばに線路はありましたが、軍用のため住民が自由に利用するには戦後の新京成電鉄開業を待つことになります。
 旧軍隊の解体によって津田沼~松戸間の演習線は放置され、中間部のレールは撤去されていました。京成電鉄・旧鉄道連隊関係者などにより昭和21年新京成電鉄株式会社が設立され、昭和22年2月新津田沼駅~薬園台駅間の建設着工、同12月営業運転開始と続き、滝不動駅へ延伸、昭和24年1月には鎌ヶ谷大仏駅までが開通し、3月には二和向台駅が完成しました。
同じ昭和24年、三咲小学校内に船橋市公民館二和三咲分館が設置され、この地域の公民館活動が始まり、周辺住民の集会場所や役場の催す行事、農業改善運動などの会場となりました。そのころ新京成線各駅周辺では宅地が少しずつ広がり始めてはいましたが、昭和30年代に入り松戸市の金ケ作地区(現常盤平団地)を皮切りに新京成線沿線では昭和35年前原団地、36年高根台団地と大型宅地開発が本格化しました。公民館は昭和35年社会教育法改正に伴い、船橋市公民館条例が改定され「船橋市北部公民館二和三咲分館」として主催事業を実施するなど活動を活発化させました。昭和36年に開催された「婦人学級」は運営委員の協力のもと今年度も開催されており、多くの地域在住女性の学習と親睦の場として50年目を迎えようとしています。
 昭和49年5月 二和町101番地に独立館の「船橋市二和公民館」が新築開館し、「生活にうるおいと教養」をモットーに二和・三咲・八木が谷地区の青少年から高齢者を対象とした事業を展開するとともに、地域の団体に会場貸出しを始めました。50年の国勢調査では二和町の人口は8,441人、三咲町11,852人、八木が谷町10,980人となっており、三地区の就業人口比率はすでに開墾地二和・三咲の面影なく、農業等の第一次産業従事者は5.7%で54%を超える人が第三次産業に従事している「広い農地の中で宅地化が著しい地域」となりました。
公民館近くの船橋市立三咲小学校は周辺地域の人口増加により、昭和47年には6学年で2千人を超える児童が通学し、48年から50年代後半にかけて新設の八木が谷小、大穴北小、二和小、咲が丘小へ校区分割、児童移籍を行なうほど、この地域の開発と人口増加は大きな変化でした。
 平成3年10月、公民館は二和向台駅前に北図書館・市民課二和連絡所(後に出張所)との複合施設として移転新築開館しました。 旧館は「埋蔵・文化財調査事務所」として現在も使用中です。
 

参考 

●「ふなばし物語-太古から現代まで-」船橋市広報課
●「創立百十周年記念誌 三咲小のうつりかわり」創立百十周年記念実行委員会
●「新京成電鉄五十年史」新京成電鉄株式会社

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