太宰治に愛されたまち、船橋

更新日:平成30(2018)年6月1日(金曜日)

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「最も愛着が深かった」まち

昭和の日本を代表する小説家、太宰治。青森県北津軽郡金木村(現:五所川原市)に生まれ、『富嶽百景』『走れメロス』『津軽』『斜陽』『人間失格』など数々の名作を残すも、昭和23年に北多摩郡三鷹町(現:三鷹市)の玉川上水に入水し、39歳で早世しました。

乱れた私生活、人間関係のトラブル、鎮痛剤依存……今も多くの読者に愛されている太宰ですが、思い浮かぶのは厭世的、退廃的、悲観主義的な人物像です。

大地主の家に生まれながら、故郷の津軽を離れ、東京近辺で住まいを転々とし、短い一生を駆け抜けた太宰。
そんな彼が、自身の回想記『十五年間』(昭和21年)の中で、「最も愛着が深かった」と述べているまちが、船橋です。

1年3カ月の船橋滞在

盲腸炎をこじらせ腹膜炎を起こし、鎮痛剤パビナールによる中毒にもなってしまった太宰が、療養のために東京杉並から船橋へ転居したのは、昭和10年7月1日、26歳のときでした。太宰はここで内縁の妻であった“初代(はつよ)”とともに、1年3カ月の時を過ごしました。

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※画像はいずれも昭和初期のもの。1枚目から順に、国鉄船橋駅南口、本町通り(船橋駅南口からすぐ)、船橋町役場

短い滞在期間でしたが、太宰はここで濃密な時間を過ごし、ゆかりの場所が現在に伝えられています。
太宰ファン必見の場所の数々をご紹介します。

海老川の流れのそばで借家住まい

太宰の旧宅は千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿一九二八番地にあった新築の借家でした。現在の住所では「船橋市宮本1丁目」。船橋駅から歩いて10分もかからない位置です。

現在、旧宅跡には別の住宅が建っています。船橋駅前の喧騒を知る人からは意外に映るほど閑静な、細い路地の入り組んだ住宅街。車通りはほとんどありません。
近くには、海老川が今も静かに流れています。

太宰が愛した“夾竹桃”

太宰は船橋の家に住み始めてほどなく、近所に住む人から“夾竹桃”をもらい、庭に植えたそうです。故郷の津軽では珍しかった夾竹桃。後日、自宅を引き払うときも、この夾竹桃への愛着を口にし、涙したといいます。

『めくら草紙』(昭和11年)より

《私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思つた。私は家人に言ひつけて、どれでもいいから一本、ゆづつて下さるよう、お隣へたのみに行かせた。》

太宰がお隣から譲り受けて自宅の庭に植えたとされる夾竹桃は、昭和58年に中央公民館前の広場に移植され、現在でもその姿を見ることができます。また、近くには文学碑が建立されています。
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(住所)船橋市本町2-2-5

執筆に勤しんだ場所“割烹旅館 玉川”

「玉川」と聞いて太宰ファンが思い浮かべるのは、彼が入水して最期を迎えた“玉川上水”ではないでしょうか。
船橋市には、奇しくも同じ「玉川」の名を持つ旅館があります。

創業大正10年、歴史ある純和風旅館の“割烹旅館 玉川”は、今も宴会や宿泊などで多くの来客がある、船橋を代表する旅館であり、平成20年には国の登録有形文化財となっています。
そんな玉川の「桔梗の間」という部屋に、太宰は20日間ほど泊まって小説を書いていたといわれています。滞在費用を払うことができず、その形(かた)として本や万年筆を旅館に置いていったと伝えられていますが、昭和51年、旅館の母屋が火災に遭い、なくなってしまったといいます。


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※写真1枚目……昭和初期の旅館玉川 2枚目……現在の旅館玉川

(住所)船橋市湊町2-6-25

「割烹旅館 玉川」ホームページ

九重橋

海老川に架かる橋。完成は昭和63年なので、太宰がここを渡ったことはありませんが、旧居跡に近いことから、太宰を偲び、肖像や年譜、「走れメロス」の一節、小説の一場面のレリーフが欄干に施されています。

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※海老川には多くの橋が架かっており、船橋のお散歩スポットになっています。「海老川十三橋めぐり」についてはこちらをご覧ください。

御蔵稲荷神社

船橋時代の太宰は、お稲荷さんの狐の石像を背景にした写真を残しており、これを単行本の口絵写真にも使っています。この写真が撮られた場所として伝えられているのが、船橋市本町4丁目の「御蔵稲荷神社」です。船橋駅の南口を出発し、飲食店等の立ち並ぶ繁華街を抜けると突然現れる、鮮やかな赤い鳥居。今も地域のみなさんが大切に守っている神社です。
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(住所)船橋市本町4-31

苦しくも、愛着深き船橋時代

太宰は船橋で、『ダス・ゲマイネ』『地球図』『めくら草紙』『虚構の春』『狂言の神』などの作品を執筆したほか、最初の短編集『晩年』を発表しています。
これらの実績だけ見ると、さぞかし充実した創作活動をしていたのでは……と受け取れますが、実際には苦難の連続でした。

“芥川賞”を切望

太宰が船橋に住み始めた翌月の昭和10年8月、第1回芥川賞の発表がありました。太宰は候補に残ったものの、落選(受賞作は石川達三「蒼氓」)。文壇に認められたいという思い、借金だらけの生活を好転させなければという焦り……太宰は強く受賞を望んでいただけに、その落胆は大きかったことでしょう。選考委員だった川端康成に対し、怒りを露わにした文章を発表したことは有名です。また、同じく選考委員であった佐藤春夫に対しては、第2回の受賞を懇願する書簡を送っています。

そんな願いもむなしく、第2回芥川賞の選考結果は「受賞者なし」。今でこそ抜群の知名度を誇る人気作家の太宰ですが、最後まで、芥川賞を受賞する夢が叶うことはありませんでした。

最初の短編集を刊行

船橋に滞在して約1年が経過した昭和11年6月、太宰は最初の短編集『晩年』を砂子屋書房から刊行します。太宰にとって初めての単行本でありながら、『晩年』というタイトル。若くして、死を強く意識していた太宰ならではといえます。鎮痛剤中毒からの療養のため船橋に引っ越してきたはずが、症状は改善せず、健康状態は不良でした。

入院、船橋との別れ

鎮痛剤パビナールによる中毒が深まる太宰を救おうと、家族や知人は入院を勧めます。昭和11年10月13日、井伏鱒二の説得により、太宰は東京板橋の武蔵野病院に入院し、船橋の家を引き払いました。病に打ち克つことができず、流行作家にもなれなかった船橋時代。それでも太宰は、のちの作品でこのように述べています。

『十五年間』(昭和21年)より

《私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった》

《どうしてもその家から引き上げなければならなくなつた日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植ゑたのだ、庭の青桐も僕が植ゑたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れてゐない》

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太宰の植えた夾竹桃からは、今も若い枝が生えてきています

太宰がなぜ、船橋のことを「最も愛着が深かった」と述べたのか、今となっては知る由もありません。太宰が船橋を去ってから、約80年もの月日が経っています。
ただ、今も船橋には太宰ゆかりの場所や、太宰が暮らした昭和初期の雰囲気を感じられる場所が多く残っています。

長い時間の隔たりはあるけれど、同じ場所に立って、歩いてみると……
太宰が暮らした1年3カ月が、おぼろげながら見えてくるかもしれません。